【備忘録】懺悔 ~加害者側に回ってしまったいじめの話~

 

 これは、小学校高学年の頃の話・・・

 しかし、2009年に問題が顕在化したというだけであり、問題の存在はもっと昔からあったはずだった。

 俺が唯一、加害者側に回ってしまった”いじめ”の話である。

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 相手方に許可はとってないため、当然、特定するような名称及びその予備軍は記載しない。

「その子は貧乏だった」

 理由、動機はそれだけである。
 諸悪の根源は、親なのかもしれない。
 いや、子のはずが無い。
 正確な根拠は「その子が生まれ落ちた家庭は、貧乏だった」である。

 クラスの、その子以外の全員が、いじめ、辱しめる側に回った。
 今も色濃く脳裏に残る当時の惨状を追憶すれば、先生もいじめに加担していたように思える。
 ノートや鉛筆などを忘れるその子を、先生含め皆で非難した。

 恐らく、買えなかったのであろう。
 忘れたのではない。
 そもそも調達できなかったのである。

 ひょんなことから、そのいじめが明るみに出た際、小学5年の担任の先生は、皆の前で涙を流して怒った。
 
 5年生の時の先生は恩師だが、その涙は本物だったのかと、俺は今、疑わしく思う。
 いじめの事実は、皆で容認していた。
 いじめの存在が自然過ぎて、全くの罪悪感が無かった。

 それを、第2者である先生が、気づかないことがあるだろうか?
 いじめられっ子本人からは、相談は無かったのだろうか?

 公務員が何かをやらかした時、公共機関は、その本人に対し、過失を咎める、求請権を有する。

 もっとも、責任をなすりつけたがるのは人間の汚い本性であり、公務員の本性とするのは飛躍である。
 それでも、汚い教員が時々お縄に就くこともある。
 某塾講師がわいせつ罪で捕まったのも、記憶に新しい(2023年9月17日現在)

 実は、当時の俺も、別のいじめにあっていた。
 クラス全員が敵ではなかったが、数人、、、今でも煮えたぎる怒りを隠せないクズがいる。
 いや、クズだったのは、あくまで過去のそいつらで、今は真っ当な人間となり、クズの面影はない。
 だが、俺の怒りは残っている。

 俺は、自らに向けられたいじめのストレスをデトックスするために、その子へのいじめをやってしまったのかもしれない。
 いや、やってしまった。
 そうじゃないとみなせない以上、そうなのである。

 その子が、それから中学卒業まで俺と絡んでくれたのは、多分、動機の違いを汲み取ってくれたからだろう。
 虐められる俺に、同情していたのだろう。

 中学卒業と同時に別れ、10年・・・
 久しぶりにあったその子は、もう貧乏じゃなかった。
 家貧しくて孝子顕る・・・

 事業主か何かになったのか、非常に羽振りが良かった。きっと、身を燃やし砕くような努力をしたんだろう。

 だが、怒りの炎はまだ煌々と燃えていた。
「あの時の事、忘れてないし、忘れるつもりもない」
 淡々と、無感情で喋っていた。
 
 高校、大学、そしてとある会社において「いじめ」というより「同調圧力に組織された単細胞集団が、俺独りの敵に回る」というトラブルに見舞われた今となっては、そいつの怒りの炎がよく見える。

 熱い・・・痛い・・・

 人それぞれ、生まれた環境も、育ってきた環境も違う。 
 そうやって形作られた常識は、絶対に偏るし、異端者や少数派も現れて然るべき。
 似たもの同士はくっつき、アイデンティティを強く持つ人間は孤立する。
 類は友を呼び、対は友を放す・・・

 いじめは無くならない。
 無くなるはずが無い。
 だから、問題を無くすことではなく、起こってしまった問題にどう取り組み改善するかが、一番重要だ。

 取り返しがつく時点で、取り返しを付けろ。
 起こってしまったのなら、永遠と十字架を背負え。
 
 それが「善は急げ」の核心だ。
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〇更新記録

・2023年9月17日 記載

・2024年3月2日 更新

・2024年5月2日 更新
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【備忘録】社会人基礎力まとめ

〇挨拶

 ……基本のファーストコンタクト 

 ・おはようございます

 ・本日もよろしくお願いします

 ・こんにちは 

 ・お疲れ様です 

 ・お疲れ様でした 

 ・お先に失礼致します。 

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〇名刺交換

 ……基本のセカンドコンタクト。

 自己紹介を添える。相手の素性も忘れずに心にメモる。

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〇自己紹介

 ……基本のサードコンタクト。

 会社名、部署、名前、よろしくお願い……

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〇電話応対(架電)

……「お世話になっております。株式会社〇〇でございます。只今お時間よろしいでしょうか?」

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〇電話応対(受電)

……「お電話ありがとうございます。株式会社〇〇でございます」

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〇数字厳守

 ……とにかく数字にまつわる条件を守る。 

 ・時刻 

 ・時間 

 ・期限 

 ・発注数 

 ・ノルマ 

 ・回数

 ・枚数

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コンプライアンス

 ……とにかく公共の福祉を守り、自社の看板を第一に考える。

 自社のことを考えれば、自ずとクライアントのことも思慮することになるはず。

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〇ハラスメント

 ……立件は被害者次第のため、正直言ってこの世にハラスメントじゃない行為は存在しない。 

 問題が起きたら、謝り、反省、自戒、または他戒まで。しかし、謝ったら負けな場合があるので、慎重に。 

 第三者として事に当たるのなら、悪意や飛躍にならぬように、きっちり被害者側、加害者側の言質を取る。

 事情聴取においては、被害者側の親告が基本。 

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〇トラブル時の立ち回り 

 ……自分の非は徹底的に認めた末に洗う。 

 もちろん相手方の非も追及し、同様のトラブルを起こさない。 

 ストレスも溜めない。 

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〇更新記録

・2023年9月11日 記載

・2023年10月27日 更新

・2023年11月17日 更新

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【備忘録】中学受験の負の遺産

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〇受験年表

・中学受験失敗(11歳)
 →高校受験失敗
 →大学受験失敗
 →大学編入学試験失敗
 →留年
 →人間分析、改革改善
 →現在(25歳)
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〇全ての失敗の原初を成す、最初の失敗

 軽く14年くらいを年表にすると、上記年表のようになる。
 失敗という言葉がいくつもいくつも出てきているが、実質やらかした失敗は一つ。
 「中学受験の失敗」である。
 その失敗とは、不合格の事ではない。「受験の不合格=人生の失敗」と飛躍し、その精神的負債を引きずり続けてしまったことである。
 
 中学受験の失敗を、高校受験で清算せんとし、高校受験失敗……
 高校受験の失敗を、大学受験で清算せんとし、大学受験失敗……
 
 まるで、ギャンブルにはまる人間のようであった。
 
 自分は出来る人間だ。自分は出来る人間だと勘違いし続けていた。
 自分は、勉強をやる人間ではあったが、出来る人間ではなかった。

 それを分かっていれば、もっと、いい立ち回りがあったはずなのに。
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〇受験最悪の遺産

 単刀直入に言えば「見下し癖」である。
 
 中学受験に落ち、志望校に行くことが叶わず、公立中学に進学した自分は、周りを見下すことでしか、自分を立てられなくなった。
 
 新入生テストが1位だったという、一見華々しい出来事は、裏を返せば最悪の事象だった。
 俺は、この中で最も優れた人間だと飛躍したのである。
 自身は完璧だと疑わなかった。
 
 何らかの理由で人に引け目や負い目を感じた時も、理由を付けて合理化・正当化する卑怯者だった。
 
 本質の伴わない、ただの、虚勢張りだったのである。

 強く見えるだけの弱者だったのである。
 
 残念ながら、その見下し癖は、今もなお、俺に巣食っている。

 つい最近、個人間での頻発するトラブルに、異変を感じた。

 トラブルそのものではなく、頻発しているという所に焦点を当てると、俺の見下し癖が露わになった。

 知らず知らずのうちに、他者を見下しているのである。

 虚勢を張る癖がついている。

 それに気づいてからは、改善傾向にある。
 
 しかし、その悪癖の元凶を顧みてみると、やはり浮上するのは中学受験である。

 いろんな事をいろんな形で吸収する、更に成長の幅の広さ故に多感となる小学生時代の後半に、中学受験という道を無理やり選択してしまい、机と文章に向かってしまった。
 
 時間に限りがある以上、何かをやるという事は、何かをやらないという事に同義。

 中学受験をやることで、たくさんの物事が犠牲になる可能性があるという事を、俺は、自分の過去生を以て、ここに記す。
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〇更新記録

・2023年10月31日 記載

・2024年4月25日 更新
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【備忘録】10年以上尾を引いた失恋の話

 フリー画像「血涙」

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〇諸注意

 大した潤色を加えてません。即ち、当事者なら分かってしまう内容です。何処で誰が何時見ていて、誰と誰が繋がっているのか分からないとはいえ、大騒ぎしないようお願いします。
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〇本編

 これは、現在(2023年8月15日)より10年以上昔の話……

 

 中学受験に落ちた末、心を塞ぎ込んでしまった12の俺は、受験戦争に散ってしまった自らに捧げる弔い合戦かの如く、勉学に心を燃やし続けていた。

 

 落ちた末に行くことになった公立中学において、定期考査でも、業者テストでも、とにかく校内順位3位以内を守り続けた。

 しかし……

 1位を獲ろうが、満点を獲ろうが、中学受験に受かった世界線にいる、理想としていた自分に追いつくことは叶わない。

 

 色々なことに手を出し、青二才なりに藻掻いたが、満たされることはなかった。

 悲しいことに、その幻の志望校は、中学受験以外に入学する道が無かったのである。

 

 はじめは帰宅部を希望したが、それでは心の狭い人間になると両親に止められ、一番練習時間の短い卓球部に入部。
 

 部活3:勉強7といった学校生活だった。

 学校生活において発生する、様々なストレスを勉強に昇華した。

 

 だが、その勉強でさえも、勤しめば勤しむほどに、自分の散華した中学受験での精神的負債を増幅させてしまう、デススパイラル。

 

 晴れだろうが雨だろうが、朝だろうが夜だろうが、夏だろうが冬だろうが、心の中はいつも真っ黒で、寒かった。

 

 桜の咲かなかった、文字通りの「沈黙の春」が、悪夢の方がまだ良かったと思える、不合格宣告から、ずっと後を引き続けていて、終わる兆しが無かった。

 

 だが、高校受験が近づくにつれて、当時の俺は、次第にこの溜まり溜まった負債をこの場(高校受験)で返そうと、前向きになれたのである。

 

 同級生の存在は大きかった。

 そこそこ頭の良い部類であるため、勉強を教えてもらいに来る同級生のお陰で、承認欲求を満たすことが叶ったのである。

 

 また、公立中学とは言えど、一人一人のアイデンティティを尊重してくれるその校風は、非常に心地がよかった。

 

 荒んだ心は次第に平穏に、沈黙の春は次第に歓喜の夏に向かって行った。

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 しかし、ある時ある期間を境に、下り坂に差し掛かる。

 中学2年の後期、いわゆる3年0学期と呼ばれる時期から、校内恋愛が流行り出したのである。 

 普通なのか異常なのかは測りかねるが、学年の生徒の3人に1人が、彼氏彼女のいるような状況だった。

 それも、心からお互いに信頼関係を築いている純愛と客観できたのは一握り。

 

 「来たるべき受験から目を背けて、カレカノと一緒に現実逃避しましょー!」といったカップルが溢れたのである。

 その事実を目の当たりにして、吐き気を催した自分は、恐らく性徴が周りより遅れていたのかもしれない。

 

 それらをきっかけに、男子高への進学を強く希望するようになった。

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 両親には止められた。

 帰宅部への入部を止められた時と同様、異性と言う存在を遮断してしまうことで、視野の狭い人間になりかねないという理由だった。

 そして、在住していた県内には当時、そもそも男子校が存在しなかったのである。

 

 両親の反対は、ここにも理由がある。

 

 だが、条件付きで、OKを貰うことが叶った。

 

「この家を出て男子校に通いたいのならば、この県内での最高偏差値を越える高校への合格通知を獲得しろ」

 

 親父にそう言われた俺は、勉強方法を切り替えた。

 当時、県内の最高偏差値の公立高校は、偏差値73・・・

 

 だから、74~76の高校(男子校)を4校選んだ。

 いずれも、全国的に有名な学校ばかりである。

 

 ちなみに、県内最高偏差値の学校においては、中2の時点で、既にS判定を獲得していた。

 偏差値の高さは最低条件で、この男子校4校は個性を尊重し選んだ。

 

 4校とも、第一志望だった。
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 ~~~諸々端折る~~~

 

 結果、その4校に全落ちした。

 手ごたえはあったと踏んでいたのだが、そもそも層が違う。

 

 全然別の地域にある学校を、同じ物差しで測っていた。

 その時点で、当時の頭の悪さがうかがえる。

 

 当時の俺は、勉強の良しあしと、頭の良しあしは次元が違うことにすら、気づけていなかったのか。

 

 それが、中3年明け2月初旬のこと……最後の要である公立入試まで、残り3週間ほどだった。

 4つあった第1志望をすべて失い、もう完全に人事を尽くしていた。

 頭の中が真っ白。

 

 自習時間も、ペンを持っているだけで終わった。

 県外の高校を受験したことは誰にも口外しなかったため、孤独だった。

 

 そんな時……

「あたしと同じ高校行こ?」

 

 彼女は、隣のクラスにいた女の子「サクラ」

 良くも悪くもない仲だったが、快活で気丈で、満ち足りた女の子であり、陰キャラの自分にとっては、高嶺の花のような存在だった。


 高嶺の花が、急に目の前に咲いたのである。

 既に、県内トップ高への出願は済んでいた。

 

 だが当時は丁度、出願した志望校を、変更できる期間内だった。

 トップ高は、行くつもりも受けるつもりも無かった。

 

 正確には、行くつもりの無くなった「第0志望」だったからである。


「行く」

 瞬時に心を決めた俺の、抜け殻となっていた受験戦意に、再び炎が灯った。
 サクラが灯してくれたのである。

 

 両親は、志望校変更に納得してくれた。

 その時話した理由は適当なこじつけであったが、恐らく内に秘めた本気と闘志を推し量ってもらえたのだと思っている。

 

 彼女が志望した高校は、トップの高校と比べて、3~4ほど偏差値を落とした学校である。

 不合格可能性はほぼ0に近いと判断した当時の自分が立てた目標は「首席合格

 

 約3週間、彼女とともに、勉強に勤しんだ。

 

 俺はもちろん彼女を「女」としてではなく「戦友」として接した。


 本音を言うと、彼女に対しては恋愛に近しい感情を抱いていたが、俺はそれを逆手に取り、自己研鑽の手段として利用したのである。

 ――― ――― ―――

 

 ……

 ……

 ……

 もう、オチに察しがついている方もいるだろう。

 

 結果、俺は合格したが、首席合格は取れなかった。

 それだけならまだしも、、、彼女は不合格だった

 

 首席合格は取れず、高嶺の花も散ってしまう、執拗なダブルパンチ……

 彼女がいるからこそ、この高校を受験したのである。

 彼女がいないのならば、本末転倒であった。

 

 結果、合格はしたものの、受験には失敗してしまった。


 3年前の中学受験での敗北が、さらに拍車をかけた。

 こんなことならば、初めからトップ高を受験しておけばよかったのではないか。

 もっと早く、県外への進学を視野に入れていたら良かったのではないか。
 
 ・・・

 ・・・

 ・・・

 たら、ればばかりが錯綜する、沈黙の春に引き続く、地獄の春だった。

 彼女は、俺とは目を合わせず、会話もなくなり、別世界の人間になった。

 合格した立場とあっては、フォロー出来ない。

 

 無言、無視、沈黙を決め込むその有様に、俺は腹立たしさを痛感したのを覚えている。

 当時、感情に任せ、まるでストーカーのように、電話やメールを送り付けたが、返答は無かった。

 

 結果、暫くの間、女性を、加えて女性にうつつを抜かしていた自分を強く軽蔑するようになった。

 

 だがその腹立たしさは、大切な戦友として彼女を高く信頼していたことによる、レバレッジによるものだった。

 忌まわしき中学受験敗北以降のたゆまない努力は、形式上実ったが、桜は咲かない。

 

 あの時代の葛藤を思い出す度に、当時の自分が不憫で不憫で、涙が流れる。

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〇後日談

 彼女と俺の関係は、察されていたかもしれないが、公にはなっていない。

 戦友「サクラ」について、彼女と仲の良かった友達に、それとなく話を聞いてみた。

 すると、知らない情報が得られた。

 各試験における、校内での平均順位が15位~4位くらいの上位層を中心に「1~3位打倒グループ」という派閥があったらしいのである。 

 

 それはあくまで名目だけの勉強サークルに過ぎなかったが、戦友となった彼女は、彼らの勧誘を頑なに蹴っていたという。


 1~3位なんて眼中にないよという意味だったのか……それとも、その逆か。

 

 よく考えれば、彼女は中学3年間、ずっとその学園を志望高として設定していたのである。

 

 それを、3週間前に志願先変更したような俺が、合格を手にした。

 もし、彼女の立場なら、合格を横取りされたような気分かもしれない。

 事実、俺が彼女を蹴落としたのかもしれない。

 それなら、俺の存在が恨めしく、忌まわしいかもしれない。

 

 いや、忌まわしいだろう。

 
 あくまで、推測憶測にすぎないのだが。。。 
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 月日が経ち、同窓会を迎えた、20の冬。

 

 彼女は現れなかった。

 人づてに聞いたら、遠い街で、母親になっているとのこと。

 これからも、俺は消えた彼女を想い続けるのだろう。

 人生の墓場を迎えたのは、俺の方だった。

 

 この世にもあの世にも、、、俺が愛した戦友は、もういない。

 

 

 

 10年以上尾を引く失恋の話 完
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〇更新記録

・2023年8月15日 記載

・2024年2月28日 更新

・2024年4月22日 更新

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【備忘録】この世に障害者じゃない人間は存在しない

 フリー画像「碧眼」

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〇前置き

「障害者」と「健常者」
 ……前置きするが、かなりセンシティブな話題に触れる。
 
 言葉尻ばかりに突っかかり、一切本質を理解しない頭の悪い人の目に触れないことを願う。

 ……そうじゃないと自負している人は、逆に怪しいです。

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〇本文

 生まれて初めて「障害者」に区分される人間を見た日のことは、色濃く覚えている。

 

 中学1年の時だった。


 父親と、隣町にある、大型ショッピングモール内のスポーツ用品店に行った。
 中学で卓球部に入ったので、自分の卓球の用具を購入するためだった。

 その時、大きな車いすに乗った人を見た。
 初めは、双子用の乳母車だと思った。
 しかし、乗っているのは、大人と思しき人。

(ん……???)

 

 正直、訳が分からなかった。
 ふざけているのかと思った。

 

 その大きな車いすとともに、何やら寂しげな顔をした老夫妻が買い物をしている。
 いや、買い物というより、なんだか、ただただ車いすを押しているだけのように見えた。

 生まれて初めて見る、奇妙な光景……ただただ狐につままれたような気分だった。
 得体の知れない光景に、恐怖すら覚えていた。

 ここで仰天したのは、親父が、その老夫妻と知り合いだったことである。

「おう……!」

 親父が、老夫妻に呼び掛けた。

「おう、久しぶり」

「いや、今日な、倅の卓球用品買いに来てな……」
 ……

 軽い挨拶が交わされたのち、
「あ、どうも。こんにちは」
 12歳の俺は軽く、老夫妻に挨拶をした。

 しかし、この謎の状況……

 特に、車いすに座る……というより、横たわっているような謎の人物への、不快感にも似た感情感覚は、確実にくみ取られていたと思う。

 隠せなかった。
 見ないようにした行為が、逆にその本性を克明に表していたと思う。

 その時……

「おう?元気か?久しぶりだな?」

 親父が、横たわるその何かの肩をポンポンと叩き、呼びかけた。

 

 どう言語化していいのかよく分からないまま文章に書き起こすが、とにかく衝撃だった。

 慣れ親しんでいる親父が、生まれて初めて見る奇妙なモノとコミュニケーションを図ろうとしているそのことが、衝撃というより、新鮮過ぎた。

「あ、アア……」

 その何かは、口を半開きにして、声を上げる。 
 言葉ではなく、声でしかなかった。
 その人は、喋らないのではなく、喋れないことが、本能的に分かり、心が凍り付いた。
 喜怒哀楽の、どの感情も感じ取れなかった。

 

 半開きにした口からは、涎が垂れていた。

 そうそう、他人の涎なんか目にするものではない。

 怖いもの見たさ……と言うと失礼なのだが、目を背けていた俺はいつの間にか、食い入るように見つめていた。

 その時の俺は、まるで汚物を見るような眼だったかもしれないと、申し訳なく思う。

 そのまま、軽い挨拶をして、買い物に戻った。

 卓球用品は既に購入した後だったが、もし購入する前だったら、俺はそれが頭から離れなくて購買に集中できず、買うに買えなかっただろう。

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 12の俺にとって、それら一連の出来事は、あまりにも衝撃だった。

 帰宅し家についたのち、2時間ほど死んだように眠っていた。

 はっきり言って、トラウマだった。

 夕食が出来たと呼ばれても、食指が進まない。

 様子のおかしい俺の内情を、親父は推し量ってくれた。

 そして、詳しい事情を話してくれる。
 

 ……

 ……

 ……
 あの老夫妻のうち夫は……何と親父の同級生だという。

 やつれていて、髪の毛は真っ白。

 親父より、20歳年上だと言われても、疑えないほどだった。

 そして、その車いすの上に横たわっていた人物になされた説明は、これだけ。

「あの子は、生まれつき脳に障害がある」

 生まれて初めて、障害者の存在を意識した。

 幽霊を見てしまったような感覚で、俺は暫く、学校以外の外出を避けるようになってしまった。 

 

 小学校にも中学校にも、そんな人はいない。

 授業で習ったはずだった、障害者の存在……だが、それは机上の空論に過ぎない。

 本物を見たことが無かったのである。 

「百聞は一見に如かず」という名言における「一見」が無かったのである。

 

 視界に入ったことはあったのかもしれないが、気に留める機会が無かったのである。

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 25歳の今、14年も昔となってしまったあの事を振り返る。

 それ以降、老夫妻に会ったことはない。

 現在どうしているのかも分からない。

 

 親父の同級生とは言っても、あまり関わりが深いわけではないらしい。

 

 あの出来事は、俺にいろんなことを考えさせたし、今でも考える。


 脳の障害は、生まれつきだと聞いた。


 年月を遡って想像する。

 あの夫妻が結婚し、奥さんが妊娠し、赤ちゃんが生まれる。

 ごく当たり前な、そして幸せな日常を、夫妻は想像していたはずだろう。楽しみにしていたはずだろう。

 夫妻だけに限らず、周りの友人や親類も、きっとそうだったに違いない。

 もしかしたら、周りの人物の中には、親父もいたかもしれない。

 

 我が子の脳の障害というものの存在は、恐らく生まれた後に分かったに違いない。

 その時の夫妻の心情は、どうだろうか。

 歓喜だとは思えない。 

 恐らく負の感情……それも想像を絶するものに違いない。

 とても、自分目線で考えられなかった。

 

 考えれば、涙が出てくる。

 

 夫妻の間に生まれた我が子は、喋ることが出来ず、動くことも出来ず、歩くことも出来ず……

 その周りの人たちも、あまりよくは思わないのではないか。

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 本人はどうだろうか。

 苦しいのだろうか。

 生まれてから、ずっと同じ状況なら、いわゆる健常というものをしらない。

 

 障害がある状況が当たり前なのだから、本人の場合は、障害=健常なのである。

 もしかしたら、苦楽の概念そのものを持たないのかもしれない。

 

 しかし、あるとしたら、、、

 世の中には、予期せず障害者となってしまう人がいる。

 

・うっかり地雷を踏んでしまったり……

・事故で脊髄を損傷してしまったり……

・視力を失ってしまったり……
 ……

 彼らは、健常を知っているわけなのだから、当たり前ではない日常が、半永久的に続く、健常との乖離を味わわねばならない。

 何か、悪いことをしたのだろうか。
 悪いことをした結果、そのような障害を抱えてしまう人もいるかもしれない。

 では、先述した彼は?

 前世で、何かをやったのか?

 前世の苦しみを引き継いだのか?

 夫妻はどうなのか?

 夫妻の親戚はどうなのか?

 夫妻の関係者はどうなのか?

 

 俺の親父はどうなのか?

 俺自身は・・・

 

 考えが無限に湧いてきて、考えることにエネルギーが消費され、疲れてくる。 

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 それから約14年の間、様々な障害者と会ってきた。

 関わってきた。

 正確には、関わらざるを得ない状況に立ってきた。


 そうして、弾き出した持論がある。

 

この世に障害者じゃない人間はいない

 

 誰彼、何かしらの障害を抱えている。

 正確には、人生を進むうえで、数多の障害と対峙する。

 障害があるのは人間の肉体にではなく、人間の人生の動線上にである。

 今25の俺に、どんな障害が降りかかってくるか分からない。

 

 ただ、俺はこれまで四半世紀だけでも、かなり巨大な障害を経験した。

 あくまで体感ではあるが。。。

 恐らく、きっちり障害と向き合えず、迂回ばかりの人生を歩んできた結果、その付けが回って来たのだろう。

 

 これからは、向かってきたら、きっちり対峙し、連れ添っていきたい。

 障害は、人生の職。

 きっちり向きあい、連れ添う事で、人間の魂を、もっと上のステージに磨き上げてくれる。

 あの夫妻は、それを体現していたんだろう。

 頼むから、もっともっと幸せになってくれ。

 

 人生の職の本質は苦しみではなく、苦しみと連れ添う、又は乗り越えた先にある”幸せ”だ。
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〇更新記録

・2023年11月26日 記載

・2024年2月28日 更新

・2024年4月22日 更新

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(未)【備忘録】亡くなった同級生

 フリー画像「涙」

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 昔、交通事故によって、同じクラス、それも席がすぐ前の同級生が亡くなった。

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 中学1年、それも終わりかけの時の話。春休みまで、あと2日だったと記憶している。
 

 その日、俺は残雪に滑って派手に転倒し、遅刻寸前に教室に駆け込んだ。

 当時の俺は時間にルーズだった。 

 滑ったから遅刻寸前になったのではなく、遅刻寸前だったからこそ、焦って滑ったのである。
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 教室に入ると、何故か中3担当の先生がいた。HRも、その先生が担当だった。

 

 異例である。

 

 何かしらのイレギュラーで、担任の先生が対応できない状況にあることは、13歳の頭でもよく分かった。 
 
 中3担当の先生からは、生徒の1人が交通事故に遭ったらしいということだけ伝えられた。

 接触事故くらいにしか思ってなかったので、あまり気に留めなかった。


 だが、クラスの男が一人、いないことに気づく。

 ムードメーカーのようなポジションで、風邪をひくようなタマではなかったため、事故に遭ったのはそいつだと皆が察した。

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 イレギュラーはあったものの、皆あまり深くは考えず、1時間目~3時間目~給食~昼休み~4時間目と平然と過ごした。

 だが、4時間目終了後、副担任の先生より、5、6時間目が削れ、体育館に来るように指示が飛んだ。

 

 そこで、ほぼ全員が察したと思う。 

 だが、誰も恐れてそれを口には出せなかった。

 皆が、恐ろしい形相で顔を向かい合わせていたと思う。

 起こったのは、そのまさかだった。

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 1学年が全員、体育館に集合。

 そしてその日初めて、俺は担任の先生の顔を見た。

 いつも通りだった。

「あ、先生普通だわ」

 皆が安堵した。

 

 そして、交通事故に注意喚起を促す通知が配られた。

 

「午前〇〇時〇〇分ごろ、うちのクラスの〇〇が事故に遭いまして、それから病院に救急車で運ばれるってことがあったので、皆さん最低限気を付けているでしょうけども、今一度交通安全に気を引き締めて臨んでもらいたいという連絡です」

 

 それだけだと思った。

 しかし……

 

「○○は、午前、××時……××分………………

 

 3秒にも満たないこの沈黙は、長かった。

 

 ……亡くなりました」

 

 物凄い衝撃が、心臓を走り抜けた。

 先生の顔が苦痛に歪み、涙がポロポロと零れていた。

 

「もう、○○は帰ってきません……だから、○○の死を、無駄にしないように、これから……」

 

 寂しいことに、先生の言葉を一字一句は記憶していない。

 衝撃は鮮烈に覚えている。

 

 それが、奴の亡くなった当日の事だった。

 

 それからおよそ3晩。

 俺は魘された。

 

 奴の死んだ瞬間が、想像された。 

 

 

 

 

 

 

 風で飛ばされた反射板を取りに行き、

 

 奴が、友達を連れに来るかもしれないと。

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 その後、告別式の日程が組まれ、皆で参加した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出会ってまだ1年経たず、決して親友とは言えない間柄だったが、同じクラスにいて、必ず1授業に1度はコミュニケーションを取ることになるような、憎めない奴だった。

 死んだと聞いた時、ショッキング過ぎて、何の感情も出なかった。


 その、心臓に楔を打ち込まれたような鋭く重たい衝撃や、涙をポロポロ流しながら、生徒にそれを報告する先生の姿は、今でも、心臓にも脳裏にも焼き刻まれている。

 

 それから……

 ――― ――― ―――

 

 

 

 

 

 

 

 奴があっちの世界に行って、足掛け12年・・・
 今になって当時の奴を振り返ると、凄く人間性の卓越していた男だったことに気づく。

 頭もよく、運動も出来て、コミュ力も高い。
 決して長けた部類ではなかったが、バランスの高さは素晴らしかった。
 奴は中1の時から、進路となる高校を、本質的かつ多面的に模索していた。

 中学受験の失敗に心を砕き、陰で荒ぶり、点数ばかりを追いかけていた思春期の俺とは、全くの大違い。
 生きていれば、大人物になっていたのではないだろうか……

 

 

 

 


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〇更新記録 
・2023年9月3日 記録
・2023年10月23日 更新
・2023年11月17日 更新
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【備忘録】大江戸受験物語

 フリー画像「血涙」

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〇プロローグ

 この世に生を持ってから、足掛け12年……
 それまでずっと、甘やかされ続けてきた。
 
 満11になって、初めてそれに気づいた。

 暑い夏だった。

 それからさらに14年経ち、25になった今でも、その熱気をまざまざと思い出せるような、生々しい夏のことだった。
 
 祖父さんが死んだ。

 祖父さんは、しばらく前から身体を壊し、入院していた。
 しかし、死ぬなんてことは、考えていなかった。
 
 訃報を聞いてなお、実感が無かった。
 目の前に横たわり、そして棺桶の中に運ばれる、生気のない祖父さんの亡骸は、亡骸に過ぎず、別の物体のように思えた。

 実感が沸かないというのが主たる理由ではあるが、悲しみは無く、涙も出なかった。
 しかし、それにはもっと別の要因がある。
 
 祖父さん……
 俺にとって約10年、当たり前のように一つ屋根の下に位置していた存在が、煙のように消えていなくなる。
 祖父さんは、”消失”と引き換えに、とんでもない遺産を俺に相続させたのである。
 
強烈な問題意識
 
 祖父さんを失ったことで、当時の俺は当時の現状に対し、物凄い反感を覚えた。

 甘やかされてきた過去・・・・・・
 祖父さんが旅に出た現在・・・・・・
 
 いざ顧みて、今までの当たり前が、当たり前ではなかったこと、さらに、その当たり前は未来にあり得ないことを痛感したのである。

 予想にも出来ない、恐ろしい未来・・・・・・
 
 これが、忌まわしき「受験地獄」への誘い、さらに「受験屋の江戸」の発祥へと繋がっていく。

 ――― ――― ―――

〇中学受験編

 祖父さんが死んだ時、俺は小学6年生だった。

 

 その夏……

 何とか現状を変えないと……と思った当時の俺は、がむしゃらに自主学習をやった。

 計画性の欠片も無い。 

 ただただ、持っていた教科書や問題集を片っ端から見直し始めたのである。
 
 あろうことか「中学受験」という選択肢が克明に降ってきたのは、その時だった。
 受験本番まで、半年も無い。 
 それまで、やらされる以外の勉強の手段を持っていなかった俺には、あまりにも厳しい状況だった。
 だが、世間知らずの当時の俺にとって、そんなことは関係なかったのである。
 井戸の中の蛙は、自身を大海にいる者と勘違いしていた。
 
 何かに憑りつかれるように勉強していた。
 
 中学受験を視野に入れない生徒がやっているような、基本的な学習はもちろん、過去問演習に加え、能力向上のために百ます計算などに勤しんでいた。 
 受験ルーキーの江戸を駆動していたその何かは、恐らく祖父さん死去と引き換えに得た「問題意識」であろう。
 
 そうして6か月……
 
 翌年1月某日の、受験日……
 国語……
 算数……
 理科……
 社会……
 とにかく、残された期間で、出来る限りのことをすべてやり、人事を尽くした。しかし……
 
残念ながら不合格です
 
 ネットのHPに映し出されたその10文字は、当時の自分にとって何よりも残酷だった。
 心臓に楔を打ち込まれたような衝撃は、長らく続いた。 
 はっきり言って、祖父さんが死んだ時以上にショックだった。

 何度、受験番号を打ち込んでみても、同じ10文字しか出てこない。
 当たり前の事なのだが。
 
 そこから、小学校を卒業するまでの2ヶ月は、不毛だった。 
 細かい事情をあまり記憶していないのだが、当時の自分は、同級生をあまりよく思っていなかった。
 6年間連れ添ってきた仲であるのにも関わらず。
  
 だから、彼らと同じ公立中学……受験しなくても行ける学校に行くことに、物凄い抵抗を覚えた。 

「彼らを始めとした他者を見下し、蹴落とす以外に、自分を立てられない」

 この忌まわしき性格が、長らく自分を蝕むことになる。
 それは、今になって分かったこと。
 問題の真ん中にいると、問題が見えないのである。
 火中に巻かれて、火元が見えないのと同じである。

 ちなみに、家から通える範囲に、他の学校はなかった。
 あったとしても「公立中学に行きたくないから」なんて曖昧な理由で、中学を受験している時点で、その受験は失敗している。
 落ちたくない理由はあっても、受かりたい理由が無いからである。
 
 しかし、自然と心は高校受験に向いた。

県内トップの県立高校に受かり、この失敗を清算する
 
 下向きになったモノの、後ろ向きにならずに、前の目標を創れたのは良かった。

 だが、この計画も、既におかしいのである。

 なぜなら、受験失敗を人生失敗と飛躍している。
 どうして、この不合格を失敗と言いきれたのだろうか?

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〇高校受験編

・1学年前期

 同級生の皆がやっていない時期に勉強をやっていたのであるから、学力水準は当然高い。だが、あくまでそれは、1公立中学校の1学年内というだけのことである。やってない人より、やった人の方が当然できる。だから俺は、”やる”子ではあったが、”出来る”子ではなかった。

 新入生テストは、1位だった。 
 すれ違う同級生の誰よりも点数が高い。

 当時はやはり、奢り高ぶった。 
 人と競い、学業において、明確に序列をつけるようなことが無かったので、1位を獲るという経験が非常に新鮮だったのである。 
 
 だから、その2か月後、中間テストでは14位に降格。 
 これは、奢り高ぶったのが原因と考え、気持ちを改めた。
  
 第1学年第1学期末テスト……これが問題だった。
 英・国・数・理・社に加えて、技術家庭・音楽・美術、保健体育を加えた9教科。
 学年順位4位だった。
 
 14位からの4位とくれば、傍から見れば一見凄くも見える。
 だが、俺は、期末テストまでの3週間、出来る限りの努力をすべてやったのである。
 断然トップの1位を獲得していると思っていた。
 しかし、テスト個表を開けてみれば4位……途方にくれた。
 努力の仕方や、勉強の仕方が、良くなかったのだろう。
 
 どれだけ復習しても、このテストの点数は変わらない。
 そうして夏休みに入る。
 
 ここで、目標を少々切り替えた。
 数学検定4級、漢字検定4級、英検4級のトリプル受験を目指したのである。

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・1学年後期

 数学検定4級、漢字検定4級、英検4級のトリプル受験……

 この目標について、良くなかったのは、がむしゃらであったこと。
 手当たり次第に問題を1周しただけで、試験に臨んだのである。
 さらに良くなかったのは、受かってしまったことだった。
 
 英検4級、数検4級、漢検4級に合格したが、特に喜びは無かった。
 ここで、落ちていれば、俺は根幹にある姿勢と過ちに気づいたかもしれない。
 そして、幸の形をした不幸は、どんどん重なっていく。

 実力テスト、定期考査は、2回連続で5位……
 今振り返ると、これが3連4級合格の喜びを相殺したのだろう。

 ――― ――― ―――

・1学年終末

 俺はまた、狂ったように猛烈に勉強を重ねる。
 がむしゃらだった。
 勉強をして何かを成し遂げるのではなく、勉強をすることが目的になっていた。
 
 狂っている。
 いや、狂っていた。
 
 冬季の、学力診断テストは1位
 「素晴らしいです」
 先生の言葉を覚えている。
 
 だが、やはり満足できなかった。
 その後、インフルエンザに罹患。
 そのせいではないと思うが、学年末考査では、2位だった。
 しかし、この結果を喜んでいた気がする。
 
 1位になることより、4位→5位→2位となったことに、達成感を覚えたのである。
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・2学年前期

 この辺りから、嫉妬心が深くなった。
 勉強は出来ると自負していた。自負というより、自画自賛だ。 
 本当はやるだけで出来てはいないのだ。

 ただし、社会人が良く言うように、テストの点数で人間の価値は決まらない。
 この辺から、人間力を視野に入れるようになった。
 日記をよく取るようにした。
 委員長や、班長などの、リーダー職を務めるようにした。
 
 ただし、ここでは受験対策の勉学に焦点を置く。
 
 2学年前期の主たるイベントは、漢検3級と、英検3級である。 
 先に言うが、どちらも一発で合格した。
 
 漢検に対しては、ほぼノー勉で合格した。 
 ノー勉とはいうが、正確には出来なかったというのが正しい。
 計画性に欠点があったのである。
 いつもやっていた、新聞や書籍の読解が、ノー勉の非を埋めてくれたのだろう。

 しかし、どちらも受かってしまったことで、その計画性の無さは、明るみに出なかった。
 
 英検3級は、計画的だった。
 漢検が疎かになったのはこれが理由だろう。もちろん理由にはしなかったが。
 一度解いて、分からなさに悶絶。
 それが「語彙」の欠如によるものと察した俺は、3年の分野にまで視野を延ばし、単語数を増やした。 
 そうして一次を突破した。

 二次は、先生が他二名による手厚い修行により、合格点の二倍に近い点数を取ることが出来た。
 ※現在、社会人として英語を使うことが出来るのは、この恩師二名のお陰である。

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・2学年後期

 学習相談、部活1、部活2、塾、宿題……

 忙しい夏を経たが、夏にためた勉強貯金は、実力となった。
 中間テスト、実力テストにおいて、2回連続で学年1位を獲得。
   
 その後、何故か2位どまりで、1位に上がれなくなった。
 
 そして、ストレスが溜まる。
 そのストレスは、追いつけない自分に端を発しているのであるから、並の方法で取り除くことが出来ず、更に根絶も出来ない。
 
 当時は、そんな余裕のない精神状態だった。
  ――― ――― ―――

・3学年前期

 中学受験失敗に端を発する、強烈なストレス。
 今振り返っても、当時の自分にどうこうすることは無理だっただろうと溜め息が出る。
  
 それを、根絶する方法として、当時の自分が提示したのは、
「日本最高クラスの学校に進学する」
 
 ここは実名を貼る。
・東京「開成高校
・東京「筑波大学付属高校
・神奈川「慶応義塾大学付属高校」
・埼玉「慶応義塾大学付属志木高校」
・千葉「市川高校」
・千葉「渋谷教育学園幕張高校」

 いずれも、公立中学1位などという生半可な能力しか持っていない俺には、到底1年の努力でたどり着ける境地ではなかった。
 そもそも、自身についたお尻の火すら消せない俺は、仮に受かったとしても、3年間、その学籍を維持することは出来なかっただろう。
 
 最高水準のレベルの問題集と、近くの本屋で手に入った過去問を武器とした。
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・3学年「最悪の夏」

 自分の生まれ育った都道府県内にも、東大に多く進学者を輩出するような進学校があった。
 だが、当時の俺は、その程度のハードルでは満足いかなかったのである。
 一応、合格圏にはいた。しかし、安全圏ではなかった。
 
 ここで、親に塾を辞めたいと申し出る。
 塾のカリキュラムは、都道府県外の学校を対策するようにはできていないからだ。
 
 しかし、何故か衝突した。
 思い通りにならない状況に、爆発したのである。

「優秀ならどんな環境でもやっていける」
「成績が合格レベルに達しないのを塾や他人のせいにしたいだけだ」
「現実逃避しているだけだ」
 
 はっきり言って(出来たら面と向かって本人達に言ってやりたいが)、親も頭が悪かった。
 子供と喧嘩している親は、そもそもがおかしい。 
 
 言っていることは正しかった。
 ただ、それが正しいことだと判断できるのは、ある程度の年月を経て得た、体験、経験の存在が必須だった。
 だが、当時14歳の俺には、土台不可能なことだったのである。

 ストレスの爆弾に着火し、自暴自棄になった。
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・3学年後期「火だるま」

 この時代のことは思い出したくない。 
 当時の俺と、その周りに登場したどんな人物が出てきても、俺を取り巻くストレスの爆弾を取り去り、火を消せなかっただろう。
 
 俺は、火だるまだった。
 水では消えない。
 
 誰もいない場所で吠え、
 無生物を叩き、壊し、
 涙というより、血を流して泣いていた。
 
 頭の悪い両親が、ヒステリックになって怒ったのは、さらに拍車をかけた。

 残念ながら、これでもまた、クライマックスとはならないのである。
 ――― ――― ―――

・悲しい春

 受験には合格した。が、進学先は、結局妥協して受験することとなった、平均的な公立高校だった。
 この時期からの俺は、病名のある精神状態だったかもしれない。 
 
 やった苦労と、負った苦悩、、、
 そうして得た結果は、割に合わないモノだった。
 
 桜は咲いたが、俺は散った。

 ここから、極寒地獄の春が始まってしまう。
 ――― ――― ―――

 

〇大学受験編

・高校0年次「沈黙の春休み」

 壊れた。
 行きたくもない学校。
 生きたくもない世の中。
 
 どの道、数十年後には死ぬ。塵になって土に帰る。急に、考え方がメタになり、生きる希望が無くなった。
 
 理由もなく、虚しさに泣いていた。恐らく、病名のある精神状態だっただろうと、今ではそう思う。
 
 自殺を考えた。だが、実行はしていない。自殺を考えることで噴出する、生命への執着心で、辛うじて正気を保っていた。
 
 幾度も幾度も、棺桶の中で青白く眠る、自分の姿を想像した。
 ――― ――― ―――

・高校1年次前期

 桜の咲かなかった春。

 

 同級生と慣れ合いたくなく、部活を選択できなかった。

 単身で走れる陸上部か、それとも文化部か……

 

 そんな時、担任の先生の誘いもあり、あまり一般的ではない、知る人ぞ知るような、とある文化部に入部した。

 特定されかねないため、何部かは言わない。
 だが、活動するためには、並々ならない羞恥心への耐性を有するモノだった。
 当時は、新たな分野への好奇心が羞恥心に勝り、入部し、活動を続けたが、もう無理だと、約8か月で断念した。
 
 上記部活動に関しては、学業とは関係ないが、学業をする上での環境を構築している。
 勉強とその他活動は、線引きが出来ないのである。

 ちなみに、学業において、新入生テストは18位……
 全体300人と考えれば、かなり上位に位置する。
 だが、勉強をやる人間ではあっても、出来ると勘違いしていた俺は、18という数字にしか着目できなかった。
 
 18位は、中学時代に獲ってきた順位とは、比べ物にならないほど低いモノだったのである。
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・高校1年次後期

 自分の存在意義を見失い、300人中、160位まで落っこちた。そして、さらに自己肯定感を損なう、デススパイラルである。


 一度、著しく体調を崩した。熱、鼻水、咳、腹痛、頭痛……そして声が出ない。
「全部じゃん!」
 かかりつけのお医者さんにそう言われた。


 それでも、2週間ほどで治ったが、気から出た病を治しても、気までは治らないのである。
 
 そんな時、転機、というほどでもないが、一つイベントがあった。
 東大医科学研究所の見学会である。
 そこにいたのは、病理医。
 臨床医とは異なり、病のメカニズムに着目する、研究専門のPROFESSIONALである。

 しかし、影響指数が大きかったのは、一緒に見学に参加した先輩方だったと、今では思う。
 高校1年生での参加は、自分1人。
 高2から1人。
 高3から2人だった。
  
 高2の先輩と高3の先輩は、その後医学部に進学している。 
 自分も、医学部を強く希望するようになった。 
 医学……正確には、医学部進学→医者として開業というライフプランは、受験失敗して削れた自身の存在意義を再構築するのに、うってつけだったと感じていたのである。
 
 残念ながら、そんな志で免許を持った医者に、かかりたくはない。
 結局自己中なのである。
 自己中な人は、自己中なことに気づけない。
 
 高校1年目の進路面談を覚えているが、1か月後の模試で、校内10位以内に入ると宣言した。
 無謀だった。
 
 しかし、当時の俺にはどうしようもなかったと思う。
 自身の異常性に、気づく契機が無いのである。
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・高校2年次前期

 高校2年に進級するが、依然として、頭の中は小学6年の頃と変わっていなかった。
 「残念ながら不合格です
 あの10文字を見た瞬間から、歯車が止まってしまった。いや、狂ってしまったの間違いか・・・
 
 高校生活を営む上で、孤独は恥ずかしいと感じたので、一応友人は作った。
 だが、形式上だけで、嫌悪感を隠しきれていなかった。 
 
俺は本来、こんな奴と同じ校章を身に着けることは無かった

 それを、会う人会う人全員に思った。
 無意識に、OBOG先輩後輩同級生先生方……不特定多数を敵に回したのである。
 
 もちろん面と向かってそういうことを言わないが、態度の端々に出ていたのかもしれない。
 とうとうそれがくみ取られてしまったのだろう。
  
 いつメンに、仲間外れを食らい、Twitter上で誹謗中傷された。
  
 俺は激怒し、先生や親を巻き込んで、大事にした。 
 相手方に厳重注意が下った。
 
 そして、俺は本格的に孤立する。
 自分のせいでいじめに遭ったのに、それをまた嫌悪し、孤立する自分をまた嫌悪する。
 あの時の俺を、救い上げる方法は無かったのか。
  
 休み時間中はトイレに行き、いつもイヤホンを耳に突っ込んで狸寝入りをし、独りで昼食を食べた。
 
 しかし、その夏に、転機と呼べそうなものがあったにはあった。
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・高校2年次後期

 サマーウォーズ……細田守監督作品、2009年公開のアニメ映画である。
 数学オリンピック日本代表になり損ねた主人公が、その数学的知性を使い、世界を救う物語である。 
 主人公と、俺の姿が重なった。
 
 俺はあらゆる書籍を買い、腐りきった自身の現状を改善しようと試みた。
 書籍代に、5万は使っただろう。
 言わずもがな、ほとんどが焦げ付く結果になった。
 
 一時の感情の高ぶりで問題集を買い集め、そしてほとんど網羅できない。 

 あらゆる先達が言っているが、一冊集中が、受験の基本である。
 二兎を追う者は一兎をも得ず。 
 
 しかし、当時の俺には、そう達観する余裕はなかった。
 
この夏に賭けた
 高2の夏にそうスローガンを掲げ、努力したが、結局中途半端に終わり、時間を浪費しただけの、虚しい夏となった。
 
 後期も、何もかもがうまくいかなかった。
 2度目の進路面談では、理系分野で、環境問題解決に貢献するための学科に行く、と形式上答えた。
 
 医学部に行くために理系を選択し、物理を選択したが、数Ⅲすらまともに出来ず、選択するだけでその選択に責任を持つ余裕はなかった。
 
 しかし、なんだかんだ言って、この時期に英検2級は受かっている。
 落ちていれば良かったのだろうか?
 ――― ――― ―――

・高校3年次前期

 医学部→環境?に切り替えた。 
 自暴自棄になっていて、どうでも良かったのである。
 
 時間通りに学校へ行き、時間通りに席に座り、先生の声を聴き流し、時間通りに帰る。
 
 機械だった。
 これ以上書くことが無い。
 ――― ――― ―――

・高校3年次後期

 もう、国公立に受かるような場所が無い。
 私立でも、全てEランク。

 いざ、現実を突き付けられて、泣いた。
 少し、錆びれた歯車が動いたのだろうか。 

 この時期のことは、思い出したくない。
 受けるまでもない。
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センター試験

 センターは5割5部だった。
 はっきり言って、普通の人間の取るような点数じゃない。
 自己採の時点で分かっていた。
 もう、人生が視野に入っていなかった。
 
「この人生、いらね」
 ――― ――― ―――

・2次試験 

・私立1
・私立2
・私立3
・国立前期
・国立後期
 
 全落ち。
 それ以上言うことが無い。
 受けなくても分かってた。
 
 もう、人生の第一者ではなかった。
 他人事のように自分の人生を俯瞰し、不幸だけには面食らった。
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・引き続く地獄の春

 センター利用で受かっていた一応有名私大に、入学届を出したが、手続きは全て親がし、俺は何もしていない。
 呼吸だけで精一杯だった。 
 受け入れられない現実だった。
 
 そう言えば、親と言う存在。


 俺は、自身をこんな地獄に突き落とした要因の一つに、親を挙げる。
 もちろん、自分の責任もある。

 だが、受験は一人では出来ない。 

 責任は、俺にかかるだけで、登場人物全員に存在する。

 同様に、甘えるという行為も一人では出来ず、甘やかす誰かがいて、はじめて成立するのである。
 
 ……今となって振り返っても分かる。
 親と名状したくない人物が、俺の人間としての自立と自律を阻んだ側面は大きいだろう。
 
 当時の俺には、分からなかった。

 分かるはずが無かった。
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〇仮面浪人編

・中学受験失敗の精神的負債。
・高校受験失敗の精神的負債。
・大学受験失敗の精神的負債。
 
 その額面は、加速度的に増加する。
 増加どころではない。
 もはや爆発だった。
 ――― ――― ―――

 

 入学手続。
 →新居を決める。
 →家具購入。
 →引っ越し。

 

 全部親が主導権を握った。
 
 この過保護さが、俺を更に地獄に落とすことになったと、振り返ってそう思う。
 しかし、毒親に毒された当時の俺には、分からなかったのである。 

 ――― ――― ―――

 

 浪人は嫌だった。
 何故なら、一個年下の人間と同列に扱われるのが嫌だったから。
 
 しかし、いざ大学に行ったら、このまま通い続けるストレスの方が、浪人によるストレスをはるかに上回った。 
 
「俺はこんな奴らと母校を共にしたくない」
 
 結局また、同じ間違いを繰り返した。
 ――― ――― ―――

 

 1年次春学期は、何とか慣れようとしたのだが、毎日毎日毎時毎分毎秒、ひっきりなしに自身精神を突き刺してくる、現状現在現実へのストレスに耐え兼ね、とうとう仮面浪人を選択した。 

 仮面浪人するくらいなら、入学する以前に、1年でも2年でもワンクッション置くなり、通信制大学を選択するなりすべきだった。
 どの道それらは結果論だが。 
 ――― ――― ―――

 

 1年次秋学期は、履修した授業を全て休み、週6で大学の図書館に赴き、勉学に励んだ。
 無履修届を出すなり、休学するなり、方法はあったというのに、もう、まともな判断が出来なくなっていた。

 結局、仮面浪人も失敗した。

 再び全落ち。そして、当然のことながら、1年次秋学期の単位も全て落とした。50万ほど、学費を焦げ付かした結果になる。

 お尻についた火が、最早全身を包んでいた。
 異常な状況では、自身の異常さに気づけない。 
 異常と通常を量る天秤が、完全に狂っていた。
 ――― ――― ―――

 

〇大学編入学試験編

 針のようなストレスに耐えた、大学1年次春学期。

 仮面浪人に心を燃やし、そして燃え尽きた大学1年次秋学期。

 大学2年次は春秋と、愚直に過ごしてきたが、やはり、針のようなストレスは再び復刻した。

 「これでいい」という考えには至らなかった。いや「至れなかった」が正しいだろう。


 そうして、大学編入学試験、それも、医学部への編入を試みたのである。

 約半年間勉強を重ね、大学3年次の春学期に、試験を受けた。
 
 受かるわけがない。

 そもそも医学部編入試験と言うものは、医療従事者や医療専門学校にいて、ある程度の医学知識医学知性という基盤を持った人間が、医師免許を取るルートなのである。

 

 全く別の学問分野から、学歴ロンダリングなどと言った浅はかな動機では、到底くぐり抜けられる関門ではなかった。


 そんなことを想像する余裕も無かった俺は、夏の不合格通知に動揺し絶望した。

 受かるとでも思っていたのだろうか?

 驕り高ぶりにもほどがある。
 ――― ――— ―――

 

 それから、地獄の秋が始まった。

 大学の勉強も手につかず、資格試験も全て落選。

 半年の間に、秘書検定2級・ITパスポート・漢検2級……全て落とした。
 

 卒論や就活など手に負えなかった。

 そもそも、入学すら受け入れられない状況なのである。

 3年目だというのに。

 もう、ここまでくると、終わりである。

 もっと早くに、些細なきっかけ、些細な気付きで摘み取れたはずの不幸の種が芽吹き、死に花を咲かせた。

 ――― ――― ―――

 

〇地獄留年編

残念ながら不合格です

 小6の時の火種から、早12年分の精神的負債が、とうとう牙を剥いた。
 
 中学受験失敗
 →高校受験失敗
 →大学受験失敗
 →大学編入学失敗
 →それらに付随する個々のトラブル
 
 多岐にわたるトラブルも、源流は一緒だった。その源流元凶を絶たないことには、どんな行動も、苦しみを延ばすだけの対症療法に他ならないのである。
 
 だが、手遅れだった。

 トラブルの河川は氾濫し、決壊した。

 ――― ――― ―――

 

 眠れず、動けず。

 トイレや食事すら、限界ギリギリにならないと動くことが出来ない。

 恐らく、うつ病適応障害のような状況だったのだろう。

 それらは他者の目線から見れば、甘えにしか見えない。

 

 大学教授や親からの電話やメールに怯え、布団にくるまってブルブル震える日々。

 もう、まともな精神を保つことは無理だった。

 ――― ――― ―――

 以上を察した大学教授、親、大学専属の保健師、周りの人間が連携を取り、俺は、大学近辺の心療内科に通院した。

「甘えてんだよ!」 

 

 こんな時に限り、散々甘やかしてきた親が、自身の教育の失敗を隠すかのように厳しくなったことを、一生俺は怨み続けるだろうし、吐き気がする。


 大学休学の名分を作るために、心療内科に通院はしたが、うつ病とか、適応障害などといった診断はさせなかった。  

 一生拭えぬ汚点となりかねないからである。

 とにかく、狂った生活基盤を叩き直すために、一時的に投薬した。

 ――― ――― ―――

 

 半年間だけのはずだった留年が、1年間に伸び、俺は4年+1年で大学を卒業した。

 はっきり言って、+αの1年は、それまでの4年よりも、長く感じられた。

 12年の精神的負債を返すための先駆けとなる1年だからである。

 

 とにかく、社会復帰できてよかったと、今では安堵する。

 下手をすれば、どっかから飛び降りて死んでいたかもしれない。

 

 いや、死んだのだ。

 受験生の江戸は死んだ。

 受験生の江戸を死なせることで、それまでの負債を帳消しにする。

 

 約13年にわたる沈黙の春は、自己破産のような終幕を迎えた。

 ――― ――― ―――

 

〇あとがき

 留年を終え、就活に勤しむ。
 とある会社に就職したが、1年足らずで辞めた。
 業務が辛かったわけではない。
 
 辞めたのは会社と言うより、それまでの悪しき自分だと思う。
 さなぎを脱ぎ去り、同時に、溜まり溜まった老廃物を捨て去った。

 「1年足らずで退職」と言うのは、世間一般的にはよろしくない経歴である。
 だが、非常に心地よかった。

 ようやく、自分の人生を生きられる。

  
 そう痛感した。 

 

 自分で立ち、自分を律する。

 俺はもう、あの頃には戻らない。

 

 平成の江戸

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〇更新記録

・2023年10月27日 記載

・2023年11月21日 更新

・2023年11月23日 更新

・2023年12月2日 更新

・2024年2月22日 更新

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【備忘録】某サークル30期騒動(2018年~2021年)

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〇注意書き

※言わずもがな、誰ともどことも断定しません。文句があるんなら、当事者全員俺の前に手をついて申し立ててください。何なら不服申し立ての裁判してもいいですが、2023年にあった「脅迫電話」の内容を抑えてますし、確実に現役のメンバーに迷惑がかかりますので、よく考えて行動ください。

 俺がここに書くのは、あくまで、反省・自戒のためです。

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〇内容

〇2017年入学 30期の江戸

 2017年大学入学後、あまり公に出来ないトラブルに見舞われ、傷心の1年が過ぎた。大切な人の、不慮の逝去である。心がぶっ壊れた。だから、大学でサークル入部を検討したのは、2018(大学2)年の4月だった。大学では帰宅部員も一般的だが、何かに縋りたかった。入部を決めたのは、そのサークル「B」の存在を知った次の日だった。でも、暫くは心が一杯一杯で、日常を営むだけに精一杯だった。
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〇2018年12月 バイク事故

 トラブルが始まったのは、2018年の12月。江戸はバイクで事故り、先輩のバイクを破損した。保険に入っておらず、頭が真っ白になった。個人商店などで買うべきではなかったのである。入っているモノと勘違いしていたのである。しかし、それは今なお精神に火をつける、忌々しいトラブルの皮切りだった。事故そのものの過失は、10-0で俺に非がある。先輩は止まっていたからだ。ただ、事故を引き起こす要因までを洗えば、汚い組織の非が見えた。江戸は、バイク購入後1ヶ月経たないまま、バイク練長だったのである。その異常性に、気づけなかった。これは、壊れていた心によるものだと思う。壊れていないと勘違いしていたのが、災いした。
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〇2018年 冬合宿

 江戸含む30期は、4人。2018年10月末のスプリント大会から「B」の運営幹部となった。2018夏に、江戸は留学していた。初めて参加した行事が、まさかの28期の先輩方が運営する秋旅行だった。運営出来るだけの知識や経験は、先輩方から学べばいいものの、気力も余裕も無かったのである。「B」の練習には参加していたが、参加することそのものが目的となっていた。

 冬合宿は大失敗。部長と副部長で、運営のやり方で意見が割れていた。冬合宿は開催されたが、副部長は怪我をし、もう一人の同期は熱を出した。俺は、逃げた。もう、バイクなんか見たくも無かった。トライアスロンにも関わりたくなかった。誰彼に相談できる状況じゃなかった。ケツに火が付くどころか、全身火だるまのような状況だった。部長一人に苦悩が集中。29期の先輩方が、部長を支えたが、部長も壊れてしまった。30期部長と副部長は、合宿をどうやるかで揉めていたが、そもそも、やるべきではなかったのである。一旦活動を止め、幹部4人の方向性を定め、または改めるべきだった。ただ、当時の俺には出来なかっただろう。
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〇2019年1月

 俺は、競技からも運営からも逃げたが、「B」から逃げたくなかった。言わずもがな、傷心の拠り所だったからである。「B」があって、初めて正気を保っていたのである。
 この時期にも、トラブルが頻発。デュアスロンの大会で、部員の一人が骨折を伴う大怪我。我々30期のメンバーが、課外活動許可願を大学に提出しておらず、保険も下りない。大会の保険を使ったと聞いたが、詳しいことは分からない。

 俺は当時、車の免許を取りに行っていた。とにかく、組織に心を置いても、競技からは距離を取りたかった。この話を、車校の宿舎で聞いて、俺は、何も考えられなかった。そもそも、車の運転が上手く覚えられなくて、留日していたのである。それでも、何とか2日遅れで免許合宿を終了した。
 29期先輩から「B」は終了だと通告される。もう、頭の中が真っ白……いや、真っ黒だった。
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〇2019年 春学期

 加えて再び、我々30期は、しかるべき期日に参加すべきだった説明会と、しかるべき期日に提出すべきだった書類、その2事項を怠り、2019年度春の新入生勧誘が、公に出来なくなった。説明会も開けず、ビラも配れず……俺はまた、別件でトラブルを起こし、身動きが取れなかったのである。29期の先輩方が頑張り、32期の後輩を12人、大学の助成無しに入部させた。29期の先輩方のおかげで、「B」は息を吹き返したのである。俺達30期が、殺したのである。いや、殺させられたと捉えているが。
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〇2019年 スプリング大会

 30期4人は、解体された。部長と副部長は退部。俺と、もう一人は残った。部長と副部長が掲げていた目標は、「B」でなくても叶えられるもの。もう一人の「インカレ出場」という目標もそうだった。江戸は、もう何が何だか分からなかった。この時期は、OBさんからOGさんから先輩から後輩から、色々な人と話をしたが、一切頭に入ってなかったのである。
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〇2019年 彩の国

 俺は、一念発起しようとしたが、無理だった。全学年の誰よりも運動神経が悪く、精神状態も最悪。誰が最初に貼ったか「歴代「B」最弱の男」というレッテルも、過大ではなかった。
 彩の国前日……先輩方は、俺を厳しく叱責した。その𠮟責は、30期の怠惰といい加減さに対するものである。4人で心に刻むべきものが、俺に凝固したのだが、整理がつかない精神状態では、話の内容が入らなかった。その後、あろうことか俺は、大寝坊をやらかし、彩の国の応援にもサポートにも回れなかった。準備を進め、いざ出発と言った矢先に、玄関で気を失った。先輩方はドンドンドンドンとドアを叩いていたらしいが、一切耳に入らなかった。そのドア板の向こうで、俺は横たわっていたのである。
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〇不毛、無能の30期残党

 そこからは、更なる地獄になった。30期に対する29期の先輩方の不満は、32期の後輩たちに伝播した。29期の先輩数名も、32期の後輩達も、揃って俺を卑下した。事情も知らないままに。しかし、事情を話せなかった俺も悪い。だが、全てが終わった今、第三者目線で見ても、当時の俺にはどうしようもなかった。呼吸だけで精いっぱいだった。
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〇トラブルログ

・夏合宿で、慣れない運転を買って出て、ハイエースをぶつけた。
・3本ローラー用のタイヤを固定ローラー用に使っていた後輩にそれを指摘した結果、言い方もタイミングもまずく、トラブルになった。
・俺の能力不足を努力不足と飛躍され、うっかり言い返した結果、後輩の顰蹙を買った。
 →8号館食堂で、後輩にお説教。
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〇ログ

K「江戸さんの籍なんて、いつでも抜けるんですからね」
H「来ないでください。迷惑です」
K「いてもいなくても変わらない」
K「籍抜きましょうか?」
K「俺らにそんな口きいていいんですか?
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〇ログ その2

E「江戸は俺にとってゴキブリなんだよ。ゴキブリと同じ部屋にいるのやだろ?出てけよゴキブリ」
H「来るなよゴミ」
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〇30期記念式典

 俺達30期の無責任により、一度壊してしまった「B」。その「B」の、予想以上に長く、広く、深く、重い歴史に、俺はつぶされ、お酒を飲んで暴れた。しかし、俺は記憶にない。ビールしかなかったはずのあの地下で、俺は何をどれだけ飲んだのか。12時に始まり、気づいたのは21時だった。何人かの先輩や後輩が、あったことを話してくれたが、恐らく、もっと酷いことが起きたんだと思う。ただ、俺達が散々迷惑をかけた、29期の先輩が、理性の吹き飛んだ俺を正気に戻し、手を引いて家まで連れ返ってくれたことを覚えている。
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〇29期先輩方卒業後

 その後、コロナの流行が始まった。俺は、2021年度を留年して、何とか卒業した。2020年(4年次)、2021年(5年次)と、「B」の活動には参加していない。
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〇卒業後〜現在

 突然逝ってしまった大切な人への想い。学業の問題。自分自身に起きた問題。身内に起きた問題。「B」の問題。

 社会人2年生となってようやく、全身を取り巻いていた火が消えた。そしてあの頃を振り返って、気づく。予想以上にどす黒い狂気に満ち満ちていたと。問題の渦中にして事件の火中にいると、その火元や中心が良く見えないのである。
・OB、OGの方々
・28期の先輩
・29期の先輩。
・辞めていった30期の同期。
・サークルに残り、壊れ崩れかける俺を支えていた30期の同期。 
・31期の後輩。
・32期の後輩。

 全員、加害者にして被害者なのである。当然、俺もだ。今、ストレスを溜め込めない精神になった俺は、まるで鬼のような性格になった。その怨恨の矛先は、当時の無責任な自分と、その運命である。
 仲間だったモノが全員敵に回り、立場上相手側に編入できず、ただただボコボコにされる

 あれ以上の地獄が思い浮かばない。
 しかしなるべく、当事者達には会いたくない。会った時、俺はまた暴走するんじゃないかと。いや、する。
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〇あとがき

 これは、俺の主聴と主観とで、ありのままに書いたものだから、印象操作や、嘘は無い30期の俺に対して、「相手方」という存在になる29期と32期では、この一連の出来事を闇に葬るということで意見がまとまっていると聞いた。だが、俺は当事者として、それを無視する選択をとる当時の相手方は、俺を侮辱、卑下したのではなく、侮辱、卑下する以外の選択肢が取れなかった。当時の俺は、行動しなかったのではなく、行動できなかった。俺の心では、そう着地させている。しかし今なお、怒りやもどかしさが収まらない。時々大爆発する。時間が解決してくれないこともあるのだろうか。だが、今なお「B」が大事だからこそ、この出来事を開示する。言及は構わないが、蒸し返すな。「宇宙人」に一般常識は通じない。もう、あの頃の江戸は、江戸じゃない。

 30期 江戸

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〇更新記録

・2024年4月13日 記載

・2024年4月22日 更新

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