【備忘録】この世に障害者じゃない人間は存在しない

 フリー画像「碧眼」

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〇前置き

「障害者」と「健常者」
 ……前置きするが、かなりセンシティブな話題に触れる。
 
 言葉尻ばかりに突っかかり、一切本質を理解しない頭の悪い人の目に触れないことを願う。

 ……そうじゃないと自負している人は、逆に怪しいです。

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〇本文

 生まれて初めて「障害者」に区分される人間を見た日のことは、色濃く覚えている。

 

 中学1年の時だった。


 父親と、隣町にある、大型ショッピングモール内のスポーツ用品店に行った。
 中学で卓球部に入ったので、自分の卓球の用具を購入するためだった。

 その時、大きな車いすに乗った人を見た。
 初めは、双子用の乳母車だと思った。
 しかし、乗っているのは、大人と思しき人。

(ん……???)

 

 正直、訳が分からなかった。
 ふざけているのかと思った。

 

 その大きな車いすとともに、何やら寂しげな顔をした老夫妻が買い物をしている。
 いや、買い物というより、なんだか、ただただ車いすを押しているだけのように見えた。

 生まれて初めて見る、奇妙な光景……ただただ狐につままれたような気分だった。
 得体の知れない光景に、恐怖すら覚えていた。

 ここで仰天したのは、親父が、その老夫妻と知り合いだったことである。

「おう……!」

 親父が、老夫妻に呼び掛けた。

「おう、久しぶり」

「いや、今日な、倅の卓球用品買いに来てな……」
 ……

 軽い挨拶が交わされたのち、
「あ、どうも。こんにちは」
 12歳の俺は軽く、老夫妻に挨拶をした。

 しかし、この謎の状況……

 特に、車いすに座る……というより、横たわっているような謎の人物への、不快感にも似た感情感覚は、確実にくみ取られていたと思う。

 隠せなかった。
 見ないようにした行為が、逆にその本性を克明に表していたと思う。

 その時……

「おう?元気か?久しぶりだな?」

 親父が、横たわるその何かの肩をポンポンと叩き、呼びかけた。

 

 どう言語化していいのかよく分からないまま文章に書き起こすが、とにかく衝撃だった。

 慣れ親しんでいる親父が、生まれて初めて見る奇妙なモノとコミュニケーションを図ろうとしているそのことが、衝撃というより、新鮮過ぎた。

「あ、アア……」

 その何かは、口を半開きにして、声を上げる。 
 言葉ではなく、声でしかなかった。
 その人は、喋らないのではなく、喋れないことが、本能的に分かり、心が凍り付いた。
 喜怒哀楽の、どの感情も感じ取れなかった。

 

 半開きにした口からは、涎が垂れていた。

 そうそう、他人の涎なんか目にするものではない。

 怖いもの見たさ……と言うと失礼なのだが、目を背けていた俺はいつの間にか、食い入るように見つめていた。

 その時の俺は、まるで汚物を見るような眼だったかもしれないと、申し訳なく思う。

 そのまま、軽い挨拶をして、買い物に戻った。

 卓球用品は既に購入した後だったが、もし購入する前だったら、俺はそれが頭から離れなくて購買に集中できず、買うに買えなかっただろう。

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 12の俺にとって、それら一連の出来事は、あまりにも衝撃だった。

 帰宅し家についたのち、2時間ほど死んだように眠っていた。

 はっきり言って、トラウマだった。

 夕食が出来たと呼ばれても、食指が進まない。

 様子のおかしい俺の内情を、親父は推し量ってくれた。

 そして、詳しい事情を話してくれる。
 

 ……

 ……

 ……
 あの老夫妻のうち夫は……何と親父の同級生だという。

 やつれていて、髪の毛は真っ白。

 親父より、20歳年上だと言われても、疑えないほどだった。

 そして、その車いすの上に横たわっていた人物になされた説明は、これだけ。

「あの子は、生まれつき脳に障害がある」

 生まれて初めて、障害者の存在を意識した。

 幽霊を見てしまったような感覚で、俺は暫く、学校以外の外出を避けるようになってしまった。 

 

 小学校にも中学校にも、そんな人はいない。

 授業で習ったはずだった、障害者の存在……だが、それは机上の空論に過ぎない。

 本物を見たことが無かったのである。 

「百聞は一見に如かず」という名言における「一見」が無かったのである。

 

 視界に入ったことはあったのかもしれないが、気に留める機会が無かったのである。

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 25歳の今、14年も昔となってしまったあの事を振り返る。

 それ以降、老夫妻に会ったことはない。

 現在どうしているのかも分からない。

 

 親父の同級生とは言っても、あまり関わりが深いわけではないらしい。

 

 あの出来事は、俺にいろんなことを考えさせたし、今でも考える。


 脳の障害は、生まれつきだと聞いた。


 年月を遡って想像する。

 あの夫妻が結婚し、奥さんが妊娠し、赤ちゃんが生まれる。

 ごく当たり前な、そして幸せな日常を、夫妻は想像していたはずだろう。楽しみにしていたはずだろう。

 夫妻だけに限らず、周りの友人や親類も、きっとそうだったに違いない。

 もしかしたら、周りの人物の中には、親父もいたかもしれない。

 

 我が子の脳の障害というものの存在は、恐らく生まれた後に分かったに違いない。

 その時の夫妻の心情は、どうだろうか。

 歓喜だとは思えない。 

 恐らく負の感情……それも想像を絶するものに違いない。

 とても、自分目線で考えられなかった。

 

 考えれば、涙が出てくる。

 

 夫妻の間に生まれた我が子は、喋ることが出来ず、動くことも出来ず、歩くことも出来ず……

 その周りの人たちも、あまりよくは思わないのではないか。

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 本人はどうだろうか。

 苦しいのだろうか。

 生まれてから、ずっと同じ状況なら、いわゆる健常というものをしらない。

 

 障害がある状況が当たり前なのだから、本人の場合は、障害=健常なのである。

 もしかしたら、苦楽の概念そのものを持たないのかもしれない。

 

 しかし、あるとしたら、、、

 世の中には、予期せず障害者となってしまう人がいる。

 

・うっかり地雷を踏んでしまったり……

・事故で脊髄を損傷してしまったり……

・視力を失ってしまったり……
 ……

 彼らは、健常を知っているわけなのだから、当たり前ではない日常が、半永久的に続く、健常との乖離を味わわねばならない。

 何か、悪いことをしたのだろうか。
 悪いことをした結果、そのような障害を抱えてしまう人もいるかもしれない。

 では、先述した彼は?

 前世で、何かをやったのか?

 前世の苦しみを引き継いだのか?

 夫妻はどうなのか?

 夫妻の親戚はどうなのか?

 夫妻の関係者はどうなのか?

 

 俺の親父はどうなのか?

 俺自身は・・・

 

 考えが無限に湧いてきて、考えることにエネルギーが消費され、疲れてくる。 

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 それから約14年の間、様々な障害者と会ってきた。

 関わってきた。

 正確には、関わらざるを得ない状況に立ってきた。


 そうして、弾き出した持論がある。

 

この世に障害者じゃない人間はいない

 

 誰彼、何かしらの障害を抱えている。

 正確には、人生を進むうえで、数多の障害と対峙する。

 障害があるのは人間の肉体にではなく、人間の人生の動線上にである。

 今25の俺に、どんな障害が降りかかってくるか分からない。

 

 ただ、俺はこれまで四半世紀だけでも、かなり巨大な障害を経験した。

 あくまで体感ではあるが。。。

 恐らく、きっちり障害と向き合えず、迂回ばかりの人生を歩んできた結果、その付けが回って来たのだろう。

 

 これからは、向かってきたら、きっちり対峙し、連れ添っていきたい。

 障害は、人生の職。

 きっちり向きあい、連れ添う事で、人間の魂を、もっと上のステージに磨き上げてくれる。

 あの夫妻は、それを体現していたんだろう。

 頼むから、もっともっと幸せになってくれ。

 

 人生の職の本質は苦しみではなく、苦しみと連れ添う、又は乗り越えた先にある”幸せ”だ。
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〇更新記録

・2023年11月26日 記載

・2024年2月28日 更新

・2024年4月22日 更新

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